ミソノイについて About MISNOI
History
ミソノイの歴史
御園井家のルーツ
水戸藩の藩士、軽部喜次衛門は常陸の國、茨城郡白鷺城下の出身で、水戸藩主井上河内之守につかえていた。
藩主の井上河内之守が浜松城に移られた時、藩主とともに浜松城下に居をかまえることとなった。
当時、軽部喜次衛門は井上河内之守の神官としてつかえていた 奥女中頭と夫婦仲となり、ともに藩主井上河内之守にお勤めしたのである。
その後、廃藩置県により藩士から平民になる折、井上河内之守城主より御園井と云う家名を頂き、浜松の新町で米穀商を営んだのである。
御園井自転車商会が誕生するまで
明治30年(1897)には、東京の上野にある不忍池周辺で自転車の競技大会が盛に行われていた。
当時、浜松町の元城8番地で米穀商を営んでいた中村重藏さんの伜で三男の中村夘平さんは、その仲間の一人で自転車いじりが好きで、自分でも自転車の競技に 参加したり、自転車のメカニックをしたりして、東京と浜松を行ったり来たり往復を重ねていた。
明治33年(1900)頃、浜松の新町39番地でたまたま染色資材を販売していた 木村新五郎商店の取引先であった横浜市の丸石商会から1台の輸入自転車が入荷していた。
当時としては大変珍しい乗り物として取り扱われていたことから、自転車のもの知りとして知られていた中村夘平さんにメカニシアンとして自転車の扱いや組立てなどを依頼していた。
木村新五郎商店は、明治36年(1903)頃、染色資材の販売から手をひき自転車の販売店に変わっていった。そこで自転車に詳しい夘平さんにつとめて貰うこととなった。
新町庚申堂の北裏ひろばを使って、その頃には珍しい自転車競走が盛んに行われていた。
夘平さんを始め自転車競技の好きな若者達がハイカラで派手なジャケットに細いズボン姿で走るのが、若い娘さん達には羨望の的であった。
ハンドルを下げ たスマートな自転車で、一生懸命にペダルを踏む時の真剣な姿は実に見事なものであったと云われていた。
中でも夘平さんは特別に誂えたユニホームを着ており、ハイカラボーイとして注目を浴びていた人であった。
木村新五郎商店から5,6軒西の新町46番地で米穀商を営んでいた御園井十七藏さんの一人娘の御園井たつさんは、新町小町と云われた美人で夘平さんに首ったけ、夢中で熱烈なる恋仲となり見事に金的を射止めた二人は密のようなロマンスも実を結び、
明治38年(1905)夘平さんは御園井家に婿入りをすることとなった。
養父の御園井十七藏さんは、夘平さんを迎えるに当り、この年に米穀商から御園井自転車商会として自転車業を経営することとなった。そして大正2年(1913)3月には合資会社組織に改めたのである。
慶応元年(1865)生れの初代十七藏さんは、業界のお世話もすることとなり大正3年(1914)11月25日の静岡県自転車業組合の創立時に副組合長として活躍することとなるが、大正8年(1919)55才で亡くなられた。
大正から昭和初期のミソノイ
養子の夘平さんは、養父十七藏さんの亡くなられた2ヶ月後には2代目十七藏を襲名して合資会社御園井自転車商会を継承することとなった。当時、新町の屋敷は約100坪ぐらいで間口が6間あった。
間口3間は自転車を並べて陳列場とし、半分間口3間は自転車の修理工場と自動車の置場となっており、裏口には土蔵と庭があって有効な利用をしていた。
2代目十七藏さんの時代には、ミソノ号【美薗号】(マークはテー・エム・シー)で製造発売とし、コベントリーチエンやタイヤ等、販売に力を入れ、
修理はもとより卸部門や貸自転車(現在のレンターサイクル)や、貸自動車(現在のハイ ヤー業務でT型フォード車を使用していた。)輸入自転車やオートバイ等併売しており当時としては巾広く商売をしていた。
因みに輸入自転車は、英国のラーヂ号、トライアンフ号、米国はデートン号、オートバイはハーレーダビットソン、エキセルシヤ、クリーブランド、エバンス、スミスモーター等数多く取扱っており、国産車は、プリミヤ号、ピアス号を取り扱っていた。
大正10年(1921)4月浜松市田町に営業所を開設し、昭和4年(1929)9月に新町の本店は田町に移転統合して個人営業となり縮小された。
2代目十七藏の長男である董一郎は3代目として、昭和10年(1935)3月鍛治町に出店し、会社組織への基礎をつくられた。昭和6年(1931)9月満州事変を契機として、昭和12年(1937)7月には、日中戦争が勃発し、戦時体制へと時代が変遷し、田町のお店は昭和12年(1937)に閉店の止むなきに至った。
昭和16年(1941)12月太平洋戦争が勃発し、時代は更に軍事的な情勢に 突入するが、昭和20年(1945)8月15日終戦を迎えることとなる。
戦後のミソノイの展開
戦後、いち早く鍛冶町の地に戻り、三代目董一郎は自転車小売店を復興させることとなる。
昭和27年(1952)3月、四代目宏昌(旧姓泰一郎)は明治大学を卒業と同時に御園井自転車商会に入店し、株式会社組織に改組することとなる。
資本金75万円で株式会社御園井商会とし、自転車、オートバイの販売修理業として設立し、社長には三代目董一郎、専務には四代目の宏昌となって昭和27年(1952)10月31日発足することとなった。
昭和55年(1980)10月19日、蜆塚店をオープンする。
昭和56年(1981)6月15日当社第31回株主総会において宏昌(四代目)は 代表取締役社長に就任。
五代目、智三郎は昭和58年2月25日当社臨時株主総会において専務取締役に就任した。
その後、平成17年(2006)当社取締役会に於いて宏昌(四代目)社長は会長に、智三郎(五代目)専務は社長にそれぞれ就任し現在に至る。
平成24年(2012)10月20日、元城店をオープンする。
ヨーロピアンブランドと小径車を主に取り扱い、レースのみでなく街乗りの顧客にも対応する店舗展開を行う。